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2013.12.16 04:31|高橋由伸
1998年
そのプレイの虜になって、はや16年。

小さい頃から野球ファンだった私。
アイドルはそのときどきで違う選手でした。

別に飽きるわけではないけれど
ジャイアンツを応援するという太い幹の
それは枝葉のようなものだったかもしれません。

でも、16年前からは違います。


初めて本気で好きになった野球選手。

『背番号・24』


1999年、2000年、2001年。
この3年間は、何度も何度も東京ドームに通いました。
一番多く球場に足を運んだ時期。


その後、生活環境が変わり
ここ数年は、ほとんど現地では観なくなりました。


今は、すごく穏やかな気持ち。

もちろん冷めたわけじゃないし
毎試合、熱くなって応援するのも16年前とまったく一緒。


もっと、もっと、深い気持ち。

「そこにいてくれるだけでいい」と思える存在。

生きていてくれればいい、と言えば大げさだけど
元気で毎日を過ごして、まずは幸せな家庭を大事にしてほしい。

そして、グラウンドで輝いてくれれば、なお嬉しい。
高橋由伸という一人の男性を長いスパンで見つめているから。


打っても、打たなくても
野球選手であっても、やがて未来にそうではなくなっても

どんな時にも、見つめていたい人。

それが、私にとっての『背番号・24』


間近で見られなくとも、それはそれで大した問題ではないし
どこにいても、心からの声を届けることに変わりはない。

そうは言っても、やっぱり打った打たないで一喜一憂してしまう。
それはいつもそう。
怪我をすれば、この世の果てまで落ち込みもする。

だけど大丈夫。

応援してきた時間の積み重ねが、心に余裕を与えてくれるから。

どんなときでも待っていられたし
これからも、大きな心で応援する自信がある。

不器用な性格だから、彼のことを嫌う人もいる。

でも、私は大好き!

多分、一生、好きなんだろうと思う。

自分が生きてる限り好きだし
それはずっと変わらない。



少し早めですが、今年最後のエントリーです。

いつ更新があるか分からない
ブログを続けていく気があるのかないのか、それもよく分からない

そんなブログを気にかけていただき、記事を読んでくださった皆さま
温かくコメントくださった皆さま
一年間、本当にありがとうございました。


来年の目標・・・

自分自身に褒められるような一年にすること。

多分それが一番難しいのだけど

褒めてもらえるように頑張ろう、と思っています。


一年間の感謝を込めて

<薫>



【追記】

『譲るつもりも、負けるつもりもない!』

12月20日 契約更改
2千万円減の年俸1億6千万円でサイン。

お給料、ちょっと下がってしまいました。
離脱期間が長かったし、68試合の出場・・・ダウンも仕方がない、かな。

来季への意気込みを「威風凛々(りんりん)」(雰囲気に威厳があって、りりしいようす)と記し
最年長という立場で若手と競い抜く覚悟をそこに込めたヨシノブ。

「一年でも長くやりたい気持ちは、変わらず持っている。
納得した形で野球人生の終わりは自分で決めたい」


この『野球人生の終わりは自分で決めたい』という言葉が心にしみる。

野球人生の幕を自分の手で下ろすことができる選手って、そんなにはいないと思います。
高橋由伸はそうできる選手のうちの一人。

引き際は、本人がもうずっと前から考えているんですよね。
あーだ、こーだって、周りからゴチャゴチャ言ってほしくないです。

プロ17年目に向け
「勝たないと試合に出られない。
そこは負けるつもりも、譲るつもりもない、自分の力を精いっぱい出したい。
結果という形でチームに貢献することが一番!」

そう力強く語りました!

本日の公式画像の中では、これが一番のお気に入りです♪
色紙にサインしてるところ。img_20131220190856042_5849428476191148097契約公式

頑張れ、ヨシノブ!
img_20131220190952090_7429623250493590888公式契約更改

↓ 続きを読む~ファンミーティング(18日アパホテルにて)~
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テーマ:読売ジャイアンツ
ジャンル:スポーツ

2013.12.04 15:15|ジャイアンツ
プロ野球、ジャイアンツのV9監督として知られ
10月28日に93歳で死去した川上哲治さんのお別れの会が
2日、東京都内のホテルで行われました。

ジャイアンツからは、原監督、各コーチ
高橋由伸、鈴木尚広、杉内俊哉、寺内崇幸、長野久義、藤村大介選手が参列。


著名な方が見送られるとき
同じく著名なお友だち、恩師、先輩、後輩・・・
さまざまな立場から
故人への追悼の想い溢れる弔辞が述べられ、思わず涙することがあります。

しかし、ご遺族が一般の方である場合
喪主挨拶、謝辞が詳しく報道されることはあまりありません。
簡単なご挨拶であることも多いかと思います。

会の終わりに、川上さんのご長男・貴光(よしてる)氏が述べた謝辞。
私は、その素晴らしい内容に胸を打たれました。

ここに全文を紹介いたします。
(翌日の新聞各紙に掲載されていたものです)


謝辞 

 
みなさま、本日はご多用の中、父・哲治のお別れの会にご参集たまわり、まことにありがとう御座います。王貞治さまには、ご丁重なるご弔辞をいただき、まことにありがとう御座いました。

去る10月28日、朝の10時に入院先の病院から「できるだけ早く来て下さい」と連絡があって、すぐに病室に駆けつけると、父は酸素マスクを付けて、荒い息をしながらベッドに横たわっておりました。前日には、見舞いに来た私の娘の顔を見て、笑顔を見せるほどでしたが、その夕方から血圧が下がるなど、様子が急に変化したそうでございます。

そして夕方の4時58分。私たち家族に囲まれながら、静かに息を引き取りました。近くにいたのに、息が止まったことに、すぐ気付かないほど、静かで穏やかな、本当に眠るような最期でございました。

父は生前、冗談とも本音とも言えない、こんなことを私たちに話しておりました。「オレは死ぬときは、坐禅を組んで、飯も食わん、水も飲まんで、木が枯れていくように死んで見せるからな。ようみておけ」

どこで見たのか聞いたのか、それが1番苦しまない、かっこいい死に方だ、と思っていたようです。しかし、最後の数カ月は、思考力も、意志の力も弱って、かなわぬことでございました。

それどころか、亡くなる少し前まで、食欲は旺盛で、出前のうなぎを食べたり、「すき焼きを作ってきてくれ」と言われて持っていくと、ぺろりと平らげたり、皆さまご存じの食いしん坊ぶりを発揮して、看護婦さんたちを驚かすほどでございました。

「テツ、メシば食わるっうちは、絶対死なんバイ」

父は、いかなる時も、自分の母のこの教えを信じ、固く守っておりました。どんなに連敗が続いたときも、風邪で熱があるときも、手術で入院したときも、食べ続けました。「病気は食べて治す」が父の口癖でした。しかし、亡くなる10日ほど前から、飲み込む力が衰えて、ついに口から食べることができなくなったのでございます。

長男として生まれた私は、60年あまり、いつも父を近くに見て暮らしてきました。生まれたときにはすでに野球人で、私が小学校の6年のときに現役を引退、その後、コーチ、監督として懸命に生きる姿を見て育ちました。

仕事柄、華やかなスポットライトを浴びることもありましたが、反面、批判、中傷の嵐に晒されるときも何度となくありました。肥後もっこすの頑固者。口下手、言葉足らずで、誤解されることも多い父でしたが、言い訳や、反論が大嫌いでした。そのため、逆風の高波を家族がかぶることもしばしばでございました。

しかし、父は実に運に恵まれた人でした。

「これだけの努力を、人は運といい」と、運で片付けられることが不満だった父に叱られそうですが、どこか天から守られていたような強い運気を持っていたように思います。

小さなころから家が貧乏で、高校時代に下宿先で苦労し、「阿蘇の火口に飛び込んで死んでやる」と阿蘇山に向かったら、様子が変だと父親に通報が行って、すんでのところで助かるということがありました。

戦時中、飛行場にいたところを敵機来襲の爆撃に遇い、カンが働いたのか、それまで避難していたところから部下数十人を引き連れて別の場所に移動しました。その数秒後に、元いたところが直撃弾でやられて、全員が命拾いをしたということがありました。

やはり軍人時代、軍服姿で自転車に乗っているとき、今度は艦載機に銃撃されました。この時はとっさに田んぼのあぜ道に飛び込んで助かったそうでございます。

その後も、早期の胃がんが定期検査で見つかって、事なきを得たり、4年前、自宅で脳梗塞に襲われたときも、運ばれた医療センターの当直が脳外科の先生で、瞬時に処置していただくという幸運があって、全く後遺症も残りませんでした。

亡くなってから、発売された雑誌の追悼文の中に、「あまり知られていないが、川上は家庭を大事にした人だった」という記事がありました。監督時代、キャンプ地から、選手の奥さんに、また独身の選手には親御さん宛てに手紙を書く。「何々君は毎日頑張っています。寂しいでしょうが、しっかり留守を守って応援していて下さい」

そんなエピソードが紹介されていました。実際、家庭人としての父は、優しい父親でした。武骨で口下手。「愛してる」「好きだよ」なんて言葉は死んでも口にできない。しかし、私たち家族は、いつも大きく包み込まれるような父の愛情を感じて育ちました。

私は生意気な息子でしたが、殴られたことは一度もありませんでした。ただ一度、母の心を傷つける言葉を吐いた私に、猛烈に怒ったことがありました。母を泣かせてしまったのです。いきなり私を素っ裸にして、家の雨戸を開けると、横かがえに持ち上げるや、庭に放り出したのです。外は一面の雪で、何十センチも降り積もっていました。そしてぴしゃりと雨戸が閉められたのです。小学生だった私は、泣き叫んで雨戸をドンドンたたきましたが、開けてくれません。

その15分間のお仕置きについて、父は後にどこかでこんな風に話していました。

「いやあ、あのときは、雪がこれくらいの深さなら、放り出してもケガはせんだろう。それくらいの計算はありましたよ、ワッハッハ」

烈火のごとく怒ったように見えたのに、うーん、敵もさるもの、案外冷静だったんだ、と思ったのを覚えています。キャンプに出る前にお灸を据えておけば、留守中2カ月は安心だ。そう考えていたに違いありません。後に監督になって、選手たちにもこんな計算した叱り方をしたのかなあ、だから連覇もできたのだろうか、などと考えてみたこともございます。

私たち家族の大きな危機は、昭和39年、12月のころでした。36年に監督になった父は、幸運にもその年初の日本一に輝きます。しかし、翌年は4位、その翌年に再び日本一になるものの、次の39年は3位に沈みました。父の口下手、説明不足に起因する、一部選手やコーチとの摩擦やトラブルが表面化し、連日のようにマスコミからたたかれました。批判記事が載らない日がないほどの大騒ぎになったのです。

家族はもろにその波をかぶりました。まだ学生だった私や妹はそれほどでなくても、母が耐えきれずに倒れたのです。激しい下痢が何日も止まらず、どんどん痩せていく。はじめはガンが疑われましたが、潰瘍性大腸炎という診断でした。

先生から「ストレスからくるので、やっかいな病気です。完治は難しい」と聞かされました。難病指定のこの病気に、当時は特効薬がありません。

父は毎日夕方になると病院に行き、朝まで病室の簡易ベッドに泊まり込むようになりました。しかし、病状はいっこうに良くならない。父は私や妹に話しませんでしたが、母はもうこのまま家に戻ってくることはないだろうと思っていたようです。

ところが、母は敬愛していたある先生から、諄々と諭されたことをきっかけに、奇跡的な回復をみせたのです。病室まで足を運んでくださって、その先生はおっしゃいました。

「あなたは、死ぬんじゃないかと自分の心配ばかりしている。マスコミにたたかれて、あなた以上に苦しんでいるのはご主人の方じゃないですか。自分がどんなに心配をかけているか、そこに気が付けば必ず病気は治ります」

快方に向かい、一時帰宅を許されて自宅に戻った母に、父が言いました。
「このまま監督を続ければ、いつかお前を殺してしまう。いつ監督を辞めてもいい、正直に言ってくれんか」

父の言葉を遮るように母が言いました。
「あなたから野球を取ったら何が残るんですか。私はもう大丈夫です。思う存分、野球をやってください」

安心してキャンプに出かけていった父から、1通の電報が届きます。
何十年もあとに、私が母から見せてもらった電文にはこう書いてありました。

「過ぎた20年昨日のごとし。雨あり風あり晴天あり。変わらぬ誠に感謝す。今日あり、明日あり、苦楽あり。喜びに満ちて、生きて行こう。 テツ」
 
その日、2月4日は父たちの結婚記念日でした。
そして、その年から9連覇が始まったのです。

父はこの3月の誕生日までは元気でしたが、春先に転倒して入院し、それからは日一日と目に見えて弱っていきました。しかし入院の5カ月間、父は自分の望んでいた通りの日々を過ごすことができたのではないかと思っております。

「災難にあう時節は災難にあうがよく候。死ぬ時節には死ぬがよく候」という良寛さんの言葉がございます。今の自分の状況をありのままに受け入れる。じたばたしないで、病気の時は病人になりきり、不自由なつらい思いもやり過ごす。もうだめとなったら、最後は静かに死を受け入れて、大自然に戻っていく。そんな姿を私たちに見せてくれたような気がいたします。

今日はお別れの会、別れの場でございます。しかしこれまで父がご縁をいただいた、たくさんの方々が一同にお集まりくださった今日の日は、出会いの場であるとも言えるのではないでしょうか。父をしのんで、昔話をしてくださり、そしてそれがまた新しい人と人との出会いになるなら、人の心のつながり、家庭の和、チームの結束を大切にしていた、父の本望ではなかろうかと思う次第でございます。皆さま方には、今日はどうぞ笑顔でお帰りいただきたいと存じます。

これまで、父を支えてくださった野球関係の皆さま方、ゴルフや釣りなどの遊びにお付き合いいただき、たくさんのご迷惑をおかけしたであろう皆々さま、そして終生変わらぬ温かい声援をいただいたファンの皆さま方、本当にありがとうございました。

最後に、今日のこの場をご用意下さった読売巨人軍のご厚意、弔辞をいただいた王貞治様、OBの皆さま方、そして東京ドームの関係者の皆さまに心からの感謝を申し上げ、お礼のごあいさつとさせていただきます。本日は誠にありがとうございました。
川上貴光


これだけの文章をまとめ、書き上げるためにどれほどの時間がかかったことでしょう... ...

偉大な父親を持った息子としての67年間。

想い出のひとつひとつを紐解きながら
書いては消し、また直し
アルバムのページを捲るように、一言ひと言を書き記されたことだと思います。

祭壇に飾られた故人の写真は、柔和な笑みをたたえ
そこには勝負の鬼と言われた名監督の厳しさはありません。

幼き日、雪の中に放り出して叱った息子が立派に成長し
共に戦った長嶋さんや王さんの前で、
こんなに素晴らしい謝辞を堂々と述べる姿。

頼もしく、誇らしげに

我が面差しを写す横顔を、じっと見つめられているかのようでした。

93歳。
人は大往生と言うかもしれないけれど
家族の想いは、いつも違いますね。
もっともっと・・・のお気持ちだったでしょう。

最期までご一緒に住まわれ、看取られたこと。
そして、こんなに素敵な謝辞で送ってあげたこと。

みなさまへの謝辞であるとともに
息子から父へ、深い感謝が込められていることを感じ
本当に素晴らしいと思いました。

ご冥福を、お祈りいたします。


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